昭和49年10月22日  朝の御理解
●②×2、

 御神訓 一 、「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ」



 神徳を頂くと言うと言うか、積んでいくと言う、心が安らぎ、安心のおかげを受けると言う事ですから、これは医学的に言うても心が安らいでおるのですから、長生きに繋がる事だと思いますね。やはり、人間の体には心配とか不安、またはしょうそう、ね、そう言うイライラするような、そういう心の状態が健康にも触ると言われるのですから、精神医学と上からいうても、確かに、信心をして神徳を受けていけば長生きのおかげが頂かれると言うことが思われます。
 そこで、神徳を積みてと仰る、神徳を積んでいくと言う事は、どういうことかというと、もうこれは限りがありません。ね、あの人を、例えば、あーあの人は間違いがない人だといっぺん信用する、付き合っていけば行くほど素晴らしいと言う事が分かる。その、付き合っていけば行くほど素晴らしい、素晴らしいと神様に、いうなら、思うてもらうということが神徳を積んでいく事です。ね。
 神様から、ね、信用される、神様に、神を信ずる氏子は多いけれども、神に信じられる氏子が少ないと仰せられるが、信心は神様に信用して頂く氏子になる稽古です、しかも、それは限りなくです、本当に、あの氏子は素晴らしいと思うとやっぱり素晴らしいと神様の、いうならば、信用がつく、ならそれだけじゃない、もういうなら、神様との交流が出来れば出来るほど、ならお付き合いをしておればしておるほど、いよいよこの人ばかりは立派な人だ、この人だけは信用のおきる人だと、いよいよその信用はつのっていく、その、つのって行くということが積んでいく事なんです。信心を、神徳を積んで行くということ。ね。だから、なら神様のご信用を頂くためにです、ね、どういう在り方にならせて頂いたらよいかと言う事になります。
 特に、●②今朝方、お夢を頂いておった。もう、それは、(  ?  )高い、この橋後のような所を、のようなものをずうっと登っておる、そしたら、あの方から、皆が、あれはやっぱ登ってついてきておる。
 それで、あるところまで、曲がらせて頂いたら、また、それこそ、(  ?   )にあがっておる、下から登ってきておるのを見ておると、みんな、こう、荷物を持ったり、担いだりしながら登ってきておる。
 だから、これでは、とても危なくて登ってこられない。そこで、神様からその時に、まあ、頂いたことなんですけれどもね、いうならば、立派な信者というかね、ここにお参りをしておる立派な信心者、信者の氏子にはそれぞれの、いうならば、生活がかかっておると言う事でも申しましょうか、ね、生活がかかっておる。●
 先だってから福岡の(  ?  )さんと言う方のご主人が、初めて合楽に御神縁を頂かれて、ね、合楽の様子を聞き私の話を聞いて、初めて参ってです、言われてる、帰ってから、私は本当に今の生活がかかっていないならば、しばらく合楽で修行したいと思うたといわれたそうです。ね、生活がかかっておれば修行しようと思うて修行が出来ないと言う事なんです。そう言う意味合いで、なら取次ぎ者というか、私共という場合の場合は、もうただただ信心のことだけを思うとけやいい、信心だけしとけやいい訳なんだけれど、一般信者はそんなわけにはいけないのだと、ね、いわゆる、みのうておったり、かろうておったりしとる者が、とてもこんな高いところに登ってこれるはずもないから、ここは一丁ね、もう一つ下の広場の所まで下りていって、済度をすると言う事を頂いた、済度と言う事は救い助けると言う事です。ね。
 ならもっと程度の低い人があるかもしれません、そこには、またそこまで下りていって、また済度をする、もっと低い人がおるかもしれない、そこには、またそこに下りていって、済度をする、救い助ける道をつけてあげれる。
 はぁーこれから、今日を境にまた私の信心が変わってきたなあと自分でも思いました。だから、神徳を積むと言う事は高いところへあがっていくと言う事だけではなくて、下りていくと言う事もそうです。そこで、なら、どういう、いうならば、場末(ばすえ?)というか、どういう、いうならば、悪魔ちごうたと言うてもいいでしょう、ね、そういう、巷にでも下りていって済度をする、そこに助かる、その助かる事がです、いよいよ、私はまた徳を積んでいくことになるのです。
 この頃から●② 五次元の世界といったようなことを神様から頂いておったが、私が今登っとる所が五次元の世界というところじゃなかろうかと思うた。●ね。
 そこから、だから、皆は親先生が登りなさるから登りたいと思うて、こう、登ってくる、けれども、人間はそこに生活がかかっておるんだという事、そんなに、金光様の先生のごたるな訳にはいかんと言う事、実を言うたら、此の方の信心は家業の行と仰る、家業の中にも進めて行けれる道なのですけれどもです、問題は、もうアンタここまでこなければおかげを頂かんよなんてんという思い方を捨てるという事、私自身が、これは、合楽にまた、おかげの頂けれる範囲が非常に広くなりました事に繋がります。あんたそげんなん事じゃいつまでもおかげを頂かんよと言うたり思うたり、私がしておるよう、おらんで済む訳です、もうその人のとこへ下りていって助かる済度をしようと言う訳ですね。その程度のところまで下りていこうというのです。まあ、この事もまた深い意味がありますから、いよいよ、分からせて頂かなければなりませんけれども、ね、今日はそういうようなお知らせを頂いて、今日はここの生きたくば神徳を積みて長生きをせよと、成る程神徳と言う事は神様のご信用と言う事ですから、先ずは、神様に信用の受けられる私達になるという事なんですけれども、ね、だから、せめて一言なりとも、はぁーこの事だけはあの氏子は間違いないと、あれもこれもと言うわけにはいきません、もうこの事だけはと。
 例えば、善導寺の久保山さんが毎日こうやってお参りなります。もう、これは何十年間感心し続けておる事は、もう時間を例刻されることです。これは、もう、久保山さんだけの例刻の出来る人は他にいないです。もうこれはもう他の者は真似できないです、見分けをされんです。ね、いわゆる、それぞれにあるんです、久富さんにもありゃ、高橋さんにもあるんです、これだけはと、神様から信じられる、それ、その、それをです、勿論育てていく事なんですけれども、ね。
 神様が、ここの所だけはこの氏子が信用できるという例えば、おかげを出す、それをいよいよこの氏子はと、もう付き合えば付き合うほど素晴らしい事が分かってくるというようにしていくことを今日は私は積んでいく、神徳を積んでいく事だとこう申しました。
 同時に、私が頂いておる所から言うとです、言うならば、ね、最低な所にでも下りていってです、ね、高いところから、それはまたこれじゃ行かんぞ、あーじゃ行かんぞなんて言う事じゃなくて、そこまで降りていって一緒に手を取ってやり、引いてやりして、一段と上に進めて行けれるおかげも授けてやれれるお取次ぎが出来るように今日からなるだろうと言う事、そこに、なら人が助かる、今まで助かりえなかった人も助かる、そげんなんこっちゃ信心者、そげんなんこっちゃおかげは頂かん。
 昨日も、ここの村内の方がお届けをしておられました。ある時々参ってくる方が、田中さんと言う方に話された、いつも私は時々参ってから、とてもあの人じゃ信心しよってから、あげんなんこってよかじゃろうかち、私だん信心はせんばってんが、あの人よりか自分が出来取ると思う、と言う悪口であったというのです。信心し取るから皆善人ばっかりじゃない、信心しとるからできとる人ばっかりじゃない、ね。
 それこそ、この頃から何万円か入っとる財布がそこにあり忘れた方があった、誰か、初めてですけれども、なくなったんです。ここでは皆どげんなん財布を忘れとってもです、必ず、あのとめけられます、ありますそこに、所が、それだけは、もうそれこそ、ころっとなくなった、大勢人が出ておるときでしたから、ね、中にやっぱ、やっぱりやっぱとめごとともいうんでしょうかね、それはそうでしょう、わざわざ下駄を履き替えていく人もおりゃね、それこそ、まあ、私は、それこそ、お賽銭泥棒に来る人でも、やはり、縁があらなければ出来る事じゃないからと思うんですけれどもです、そう言う物を指摘して信心しよってからあげんなんこっと言う事は、これは信心のない人の良く言うことですけれども、ね、ならそういう人達のところにでも、私は下りていって、言うならば、一緒に助かっていただこうというような働きが今度合楽ではまた一段と働く場と言うものが、確かな場と言うものが広くなったと言う感じが致します。
 そこで、人を、なら皆さんもです、神様にここだけは信じられておると言ったような、自分でも自負出来るようなものがなからなければいけません、ね、そして、それが一つづつでも二つづつでも一段づつ、一段づつでもやはり神徳を積んでいく、やはり精進をしなければいけません。ね。
 そこでです、私は、いわゆる、合楽示現活動に参画するという事を、これは、もういよいよ神徳を積んでいく事だと思いますね。
 生きたくば神徳を積んで長生きをせよと言うことはです、私はこれまで長生きのおかげを頂くと言うことだけではなくて、あの世にも繋がっていく長生きの事も含んでおると思うのです。ね。
 あの世での長生きと言うことはね、いわば、もう、(  ?  )助かり続けることが出来るという事です。仏教の、例えば説を借りるとです、ね、この代にはわざわざ人間が清まりに着ておる、魂を清め、この世に出てきておるにもかかわらず、しかも、何千年も、何百年もかかって、ようやく人間に生まれ変わってきおるにもかかわらず、また、生まれてきたこの世でまた磨く事もせずして、また、その、今度また牛に生まれ替わったとか、馬に生まれ替わったとか(   ?   )、ね、仏教の説でいうとそういう表現がしてあります。
 あらゆるものに生まれ変わって生まれ変わって、そして、ようやく人間に、生まれ変わってこの世に出てきたということは、だから、実を言うたら大変な事なんです。その大変な事を大変な事と知らずにです、信心もせずに、とにかくまあ、この世は太く短くといったような、ね、その、生きて、また、だからあの世では長生きはできない、あの世に行っても、また何かに苦しい意ままに生まれ変わってこなんならんという感じです。
 だから、この世で私共が神徳を積んでです、いよいよ生神金光大神を目指して、生神を目指して信心をさせてもらう、神徳をつんでいくのですから、そのままその喜びが大きくなっていく、あの世に於いても、やはり、その道を辿るのですから、限りなく永劫有り難い魂として、ね、助かっていく事が出来る、ね、そう言う働きをこの世で受けさせていただくために、私共は厳密にいうとこの世には出てきておるのですからです、様々な難儀な問題を通してご信心を頂いて、そしておかげを受けると言う事から始まって、御神徳を積んでいくという信心に段々なっていかなければいけんのです。ね。
 神徳を積んでいくという事、ね、そこで、御教えを頂いて少しはましな、嫌、この事だけは間違いがない、この事だけはあの氏子は素晴らしいと、例えば認めてもらえるぐらいな信心は早くおたがい頂きたい、成る程、信心しよんなさるけん、あの人はあそこだけは違うと言われたような物をです、身に付けたい、しかも、それが付きおうて行けば行くほどにです、素晴らしくなっていくと言う事が一段一段と神徳を受けて行く、一段一段、付き合えば付き合うほど、あの人は、ね、素晴らしい人だとという事が分かっていくような生き方を身に付けたい。
 同時に神徳を積んでいくという事は、私が今朝、お夢の中に頂いたようにです、ね、どんな巷にでも下りていって、その巷にうごめいておるというか、難儀の氏子達を一人でも救い助ける手立てが出来れるおかげを頂くと言う事、そこに難儀な氏子が助かるという事が一段一段神徳、また積んでいるということ、そこで今の合楽示現活動どうというふうに、またそれに参画させて頂くということはそのようなすばらしいことです。
 昨日、福岡の川上さんがご承知のように、それこそ、毎日6人、7人、行きも戻りも、また内ででも人にお話をなさらない事がない、示現活動を一生懸命なさる、そしたら、昨日、●② お夢にお知らせを頂いて、伝道の条件と言う事を頂かれた、道を伝えていく事の条件と言うことなんです、だから、道を伝えていくための条件にはどう言う条件がいるだろうかと言う事なのです。すぐその後にでした、日田の綾部さんがお参りになりました。昨日、大変おかげを頂いた、丁度、今、日田の田中製剤の田中さんが、大した事じゃないでけれども病院に入院しておられます。お嫁さんが今看護にいっておられる、で昨日、一昨日は綾部さんがいってから、それこそ、もう別に対したことはなさらのですけれども、まあ、たくさんの、いやば、財産家の奥さんですから、あの、まあ、お家で養生をするよりも、病院で、方がいいと、いうなら、と言うてです、まあ、入院しておられるのです。
 まあ、それでも、そげんあんたもうそんなふうしとるなら、合楽に一緒に参ろうというて、昨日、一昨日、お参りをして見えた、所が丁度私が菊栄会のあれで、おりませんでしたから、ね、そしてまた、昨日、お見舞いにいかれてです、とにかく、あの、御本部参拝もしなさるじゃったところ、それも出来なかったから、御本部参拝の事から今度の御大祭の御盛大であったことを一生懸命お話させてもろうた。
 もう第一、私はもう今度の御大祭で一番有り難かったのは嫁が、あの、婦人会で、あの、玉串を挙げさせてもらったという、もう本当にもう、感動してどうにもしようがなかった、まあ、いうならば、内のように、こじるとがなんにんもおりゃ、私もこんなにやかましい、しかももう店はあの人達、若い夫婦に言うてしまっておる、難しいテレビも、本当にもう私は感心する事は、あれを覚えてしもうてから、もう銀行関係なんかでも一人でなんでもやってのけるように嫁が成長した事、おかげを頂いて信心のことも少しは分かっていくようになり、それは、たまたま、今度、玉串のおかげをただいた時に、もう本当に娘じゃない、自分の子供じゃない、もう、その、嫁が一番内では大切な物であり、また、その嫁に対してです、心から、何か知らんけれども、まあ、可愛ゆうして、可愛ゆうしてたまらん情が沸いたと言う話をなさった。
 まだ、色々話されたらしい、それをそばで、その嫁さんが聞いておられてから、もう大変感動された。そして、わざわざ夕べは電話が掛かってまいりました、大坪、今日はもう本当によか話を頂いて、もうまるっきり私とお母さんの話を聞かせていただいとるようであった、本当に、アーもう今日はもうよか話を頂いて、わざわざ御礼の電話がかかってくるほどしであった、ね、言うならば、伝道の条件というのはです、先ずは私自身が本当におかげを頂いて、有り難いと思い、そんなら嫁と、その、綾部さんのところの嫁さんと綾部さんとの間の係わり合いと言うものがです、そんなに美しゅう麗しゅう育っていって、ありがたいと思うて子供じゃない、娘じゃない、もう嫁が一番大切なものだと言うようなです、頂き方が出来るようになったという事、ね。
 その事実を田中さんに一生懸命お話をしておったら、そばで聞いておった嫁、そこの嫁さんがおかげを頂いた、ね、だから、伝道の条件と言うのは、先ずは自分自身が有り難うなっておらなきゃならんのであり、自分自身がおかげを受けなければならん、とにかくいっぺん合楽に参りになさい、合楽はすばらしか、もう奇跡がどんどん起こってておるですよと言うような事では条件にはならない。伝道の条件にはならない、ね。
 川上さんが頂いておられるのはそういうことだ。そすと、これなら、伝道の条件の、これは、いろんな話方と言うものを、言うならば、替えていかなければならん、自分がいよいよおかげを受けておる事をお話をさせていただかなきゃならんと言うことになりました。ね。
 よいお嫁さんもです、いよいよ示現活動に参画させてもろうて、参画させて頂いて、言うなら、伝道をする、道を伝えていく、信心を伝えていく、お話をしていく、その条件としてです、先ずは皆さんがおかげを頂きなさらなければならない、そして、伝えていかなければならない、そして、神徳を一段一段積んでいかなければならないということになりますですね。                                
                                  どうぞ。

末永静行
2005年10月7日